「子育ては幸せだ」
「子どもの笑顔があれば、何でも乗り越えられる」
そんな言葉を、何度も聞いたことがある。
だけど、どうしてもそう思えない自分がいる。
もしかしたら私の中にいる“もうひとりの私”も、そう思っていたのかもしれない。
この記事は、そんな誰にも言えない孤独に、少しでも風を送りたくて書いている。
子どもを産んだその瞬間から、「親」という呪いが始まることがある
「子どもを産んだら、どんなことがあっても守らなければいけない」
「自分のことは後回しにしてでも、子どもを優先しなければいけない」
そう信じて生きようとした親たちが、
もしも“それができなかった自分”に出会ってしまったら、どうなるだろう。
正解をなぞれない毎日。
泣き止まない声に追い詰められる夜。
「戻りたい」と思ってしまう朝。
そして、誰にも言えない罪悪感と後悔に、心の奥が蝕まれていく。
「子どもなんて作るんじゃなかった」と思うことは、本当に“罪”なのか?
育児が辛いと感じるのは、能力の問題じゃない。
才能と環境と協力と、自分の心のキャパシティ。
そのどれかひとつが欠けただけでも、
「育てることが幸せ」なんて簡単に信じられなくなる。
にもかかわらず、世間は言う。
「母親なんだから」
「父親なんだから」
「子どもが可哀想」
「親になる資格がなかったんだ」
そんな言葉の暴力で、人はさらに追い詰められる。
家庭内暴力や育児放棄は、ただの“異常”じゃない
誰にも頼れず、自分を責め続け、
耳を塞ぎたくなるような泣き声に追い詰められ、
「私さえいなければ」と思い詰めるほど疲れ果てた先に――
暴力や放棄という“出口”を選んでしまうことがある。
もちろん、それが許されるわけではない。
でも、その選択に至るまでの過程には、社会が放棄してきた支えの不在がある。
では、どうすればいいのか
すぐに社会を変えることはできないかもしれない。
でも、まずはこうして言葉にすること。
そして、その言葉を“誰かの孤独の隙間にそっと置くこと”。
「子どもを育てることが辛い」
「私は幸せじゃない」
「間違えたかもしれない」
そう思った人に、こんな言葉を届けたい。
おわりに|もし、君が今とても苦しいのなら
私には何もできないかもしれない。
けれど、ここにいるよ。
この文章を読んでくれた君が、
ほんの一瞬でも「ひとりじゃない」と思えたなら、それだけで、意味がある。
苦しんでしまった君を、私は責めない。
責められるべきは、そこまで誰にも助けられなかった世界の方だ。
どうか、今日をひとつ、生き延びて。